ただ、それだけ。（28）

「相手、男なんだ」

　歩の目がほんの一瞬、大きく開いた。

「歩、ごめん……。お前にも、それからお前の恋人にも。俺はとんでもない事をした」
「……なに」

　歩が訊いた。歩は、聞かされていないのか。あの男は、歩に何も――話していないのか。

　色んな感情が込み上げる。腹の底から順に。喉元まで来たところで堪え切れず、野田は口元を覆った。

　――歩は、こんなにも、愛されてる。

　歩は本当にもう、大丈夫だ。あの男に任せておけば、きっと歩は幸せになる。

　でも、話はまだ終わってない。あと少し。歩に本当の事を話して、謝らなければ。

　野田は、浅くなっていた呼吸を深呼吸する事でそれを落ち着かせた。口元を覆う手を、震えながらゆっくりと下ろした。

「お前が雨に濡れて遅くに帰ってきたあの日、俺はお前の恋人に会って、お前と別れるように……言ったんだ」
「…………そか」

　歩の顔を見る事ができない。一言答えたきり、また黙ってしまった歩を、伺うように目線を上げた。険しい表情をしているかと思っていた歩の表情は、少し遠くを、懐かしいものを見るような目で見ていた。

「あの期間がなかったら」
「――え？」
「俺は慎治さんと同じ大学には行けてなかったから」

　歩が、野田に視線を戻した。

「兄貴は間違ってなかったよ」
「歩……」
「飯食おうよ」
「……」

　歩が野田のグラスにビールを注いだ。

「兄貴俺」
「ん？」
「兄貴と同じＴ建設に就職決めても良いかな」
「え？」
「うちの研究室から、毎年一人行ってるんだ」
「歩……」
「兄貴は、俺の小さい頃からずっと、俺の憧れだよ」

　唐揚げを頬ばった歩は、やっぱ唐揚げはここのが一番旨いね、と笑った。




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