ただ、それだけ。（29）

　住んでいた家は完全二世帯だった事で賃貸として人に貸せるのが唯一の救いだろう。どうか、そうして欲しいと両親に頭を下げた。

　優子との離婚を両親に話すに当たり優子が、本当の事だから良いの、と悪者を買って出た。優子に対して申し訳なくて後ろめたい気持ちと、それなのにどうする事もできない己の不甲斐なさに、野田は自己嫌悪にも陥った。

　それでも両親に、歩に続いて自分まで、同性を好きになったとはどうしても打ち明ける事ができなかった。――けれどももし、穂積と。歩とその恋人のような確固な関係になる事があれば。その時はきちんと、話す覚悟を決めなければいけないだろうと、野田は思っていた。

　結婚指輪を外した。

　目敏い女子社員の視線が気になったが、それより。

　――いつか、穂積の目に留まって欲しい。

　駆け引きなんて、知らない。そもそも恋愛経験が絶対的に少ない野田には、こんな小さなアプローチさえ、大きな賭けをしているようだった。軽くなった左手。その重みの分、野田はますます穂積に囚れていた。








　時刻は、午後八時だった。金曜の今夜、珍しく予定のなかった穂積はこの後一旦家に戻り、今夜限りの相手を探しに出かけようかと、いくつかの店に思いを巡らせていた。そして願わくばその相手に、なるべく多く野田に似た部分があるように。今夜のささやかな幸運を祈りながら、穂積は閑散とし始めたオフィスの自席を離れた。

　正面エントランスは午後六時で閉まる。穂積は通用口の通路へ続くエレベーターのボタンを押した。来客者が通常利用する正面エレベーターとは異なり、関係者のみが利用するこのエレベーターはどこか造りが荒く、全ての動作音が裏方向きと思わせる粗野な響きがした。チン、と少し年代を感じさせるアナログ音とともに上階から下りてきたエレベーターの扉が開く。

　穂積が乗り込んだその箱の隅に。野田が、一人で立っていた。






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