主よ、人の望みの喜びよ（２）

　恋人である歩に兄がいるのは知っていたが、彼について詳しく聞いた事はなかった。歩の兄の事で唯一知っている事――彼は歩が物心ついてから慎治に出会うまで、いわゆる「そう言う意味」で歩が愛していた相手だという事。情報はそれだけで充分だった。

　歩と一緒にいれば兄にどれだけ愛され甘やかされて育ったかは手に取るように分かったし、慎治が好きだと言ってはいても歩が兄を想う気持ちは今も変わってはいないと慎治は感じていた。そんな兄と慎治は「全然違う」と初めて会った日に歩に言われた事を今も覚えている。詳細を聞けば嫉妬をするかも知れない。歩の話す兄像に近付こうとしてしまうかも知れない。そんな卑屈な思いが邪魔をして、本当は聞いてもみたかった歩の兄の話を、今まで聞けずにきた。

　今日初めて、歩の兄に会った。歩とよく似た、意思の強そうな目。話がしたい、彼はそう言った。何についてかは、大体想像がつく。

　――俺の話は聞いてはもらえねんだろな。

「俺の話――」

　思い至って、思わず呟いた。歩の兄に、一体何を話す事があるんだろう。相手は結婚もしているノンケなわけで。歩が彼への気持ちを十六年、必死で隠して来た、その彼に。何故歩と出会ったか？　どんなに歩を愛しているか？

「――言えるワケねぇ……」

　休憩中。打ちのめされながら呟いて、まだ半分以上残っている弁当に丁寧に蓋をし直して、そのままゴミ箱に捨てた。




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