主よ、人の望みの喜びよ（３）

　今夜は少し用があるから、と同僚に残務を託して、慎治は早目に仕事を切り上げた。午後八時だった。通用口から外に出ると、慎治が纏った膜を破って冷たい風が頬を突き刺した。通り過ぎて行った風を睨み付け、次いで店の前、大通りを挟んで向かいにそびえ立つホテルを見据えた。いつもは意識するどころか見向きもしないそのホテルが、今夜はどこか威圧的に、その高さを慎治に誇示しているかのように見えた。

　遠回りだが信号のある交差点まで少し歩道を歩き、永遠とも一瞬とも思えた赤信号が青に変わると、慎治はしっかりと地面を踏み締めて横断歩道を渡った。

　ホテルの中に入ると、中は空調がしっかりとなされていて暖かく、途端に首を絞められたような息苦しさに見舞われる。それを軽く咳払いをする事で気分だけでも取り除き、羽織っていたコートを脱いで臨戦態勢を取った。

　待ち合わせ場所に指定された一階の喫茶店は、営業が午後九時までと書かれていた。約束の時刻から三十分しかないが、恐らく話はそれで充分足りるだろう。案内しようと慎治の前にやって来たウェイターを横目に店内を見渡して、野田の姿がないのを確認すると、素直にウェイターの案内に従った。

　入り口の見える席に腰を下ろし、その場でホットコーヒーを注文する。柔らかく身体が沈んでしまいそうな独り掛けのソファで浅く前屈みに座り直し、一つ、深呼吸をする。

　――覚悟を、決めとかねぇとな。

　歩に、もう会えないかもしれない。




　十分も待っただろうか、入り口に野田が現われた。彼もまた仕事帰りなのか、今朝見たのと同じスーツ姿だった。ネクタイが少し緩んでいるのが、時間の経過に伴う朝との唯一の違いだった。

　野田は先刻の慎治と同様ウェイターを横目に店内を見渡して、慎治を見つけるとウェイターを手で制して慎治の座るテーブルへと歩み寄ってきた。




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