主よ、人の望みの喜びよ（21）

　それでも死の衝動に駆られる事はもちろん、あるいは自暴自棄に狂う事もないまま、ただ毎日を淡々と過ごした。捨てきれない望みを唯一つの縁として。

　一生に一度あるかないかの恋愛も、一人の人間に与える影響は大きいようで小さいのかも知れない、と慎治は思った。



　そういえば、涙すら流していない。





　傘の雫がエレベーターの床に小さな水溜まりを作って、先の人の濡れた黒い靴跡を滲ませる。慎治はぼんやりとそれを見下ろして、自らの靴でそれをにじり消した。

　エレベーターの扉が開き、廊下に出る。顔を上げると、いつも歩の幻影を見る。今日も。

「――え」

　その光景に目を疑った。それともこれも幻影か。

　そこには歩が立っていた。



　足が竦む。ほんの数メートルの距離が遠い。落ち着け、と自分に言い聞かせて一歩を踏み出した。どのくらいの時間をかけたのだろう、恐らくほんの数秒。なのに酷く長い時間を費やした気がする。ようやく辿り着いて、歩と向かい合う。歩の目の高さが、また高くなっていた。

「――良かった。慎治さん、まだここに住んでた」

　歩の表情が、安堵で和らいだ。

　――雨。

　雨が歩を連れて来た、と思った。また、雨に濡れた――？

「歩お前、雨……」

　歩の髪に手を伸ばそうとした慎治の手を、歩が取った。

「傘、差して来たから」

　濡れてねぇよ、と歩は笑って、畳んだ傘を慎治に見せた。

「慎治さん。中、入れてよ」

　繋がった手から流れてくる歩の体温に胸を灼かれながら、慎治は部屋の鍵を開けた。




←20へ　/　22へ→
１から読む



歩×慎治(高校生×リーマン）につきましてはコチラ↓R18です。

メイン　　　　→『雨がやんだら』

番外　　 　　→『十二月二四日、夜八時』

会話のみ　 →『今日のピロートーク』
　　　　　　　　　『クリスマスイブの過ごし方』
　　　　　　　　　『ただそれだけの朝』
　　　　　　　　　『ささやかな望み』




↓ランキング参加中す。よければポチっと押してクダサイ
　 書く意欲に繋がってます。
にほんブログ村